大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和51年(わ)1152号 判決 1987年3月26日

主文

被告人らはいずれも無罪。

理由

(本件公訴事実の要旨)

本件公訴事実の要旨は、「被告人甲野一郎は、科学技術庁国立防災科学技術センター(以下「防災センター」という。)第二研究部地表変動防災研究室長であつて、防災センターが建設省土木研究所、自治省消防研究所及び通商産業省地質調査所の三機関と共同して、昭和四四年度から三か年計画により実施した「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」(以下「総合研究」という。)に防災センターの担当研究室長として参加し、被告人乙川の指揮監督のもとに、右総合研究のうちの防災センターが担当した「斜面の崩壊機構に関する研究」(以下「崩壊機構研究」という。)を実施するとともに、他機関から参加した研究員の研究を総括し、総合研究全般を効率的かつ安全に推進すべき業務に従事していたもの、被告人乙川二郎は、防災センター第二研究部長であつて、前記総合研究に防災センターの担当部長として参加し、被告人甲野ら防災センター所属研究員を指揮監督して右崩壊機構研究を実施するとともに、前同様右総合研究全般を効率的かつ安全に推進すべき業務に従事していたものである。

被告人両名は、かねて右総合研究の最終年度である昭和四六年度には、総合研究の中心テーマとして、防災センターが実験担当機関となつて、人工降雨によつて崖崩れを発生させ、降雨時の斜面の挙動観測、地下水観測等を通じて、斜面の崩壊機構を解明する実験を行うことが決定していたため、川崎市多摩区生田九三〇六番地先川崎都市計画第一号生田緑地ひようたん池南側、標高七〇メートルにある遊歩道付近を谷頭として斜面長約七〇メートル、幅約二五メートル、標高差約二五メートルの斜面を実験地に選び、昭和四六年一一月九日から一一日までの三日間にわたり、同所において崩壊実験を行うこととし、右実験のため実験斜面に多数の計測機器を設置し、標高47.5メートルの箇所に、散水中に流下する泥水の飛散等を防ぐため、高さ約一メートル、長さ約一四メートルのしがらみ柵を設け、さらに人工降雨のための散水装置として、斜面下北方にあるひようたん池の横路上に可搬式消防ポンプ三台を、実験斜面の左岸、右岸及び中央上部にレインガン三台を各据えつけて、ホースで接続したうえ、右レインガンにより散水し、斜面崩壊に至るまで、おおむね三日間通算三〇〇ミリメートル以上の多量の人工的な雨を降らせる計画のもとに、同月九日から散水を開始した。

ところで、右実験地はその上部の傾斜角度が平均約三二度、標高五〇メートル付近で約二六度の急傾斜の谷となつており、斜面上部中央付近の標高六五メートルの地点を中心とした直径約一五メートルのほぼ円型の範囲には、自然堆積の関東ロームの上に崩壊土、捨て土等透水性、含水性、保水性が高く崩壊し易い土壌があつたうえ、斜面の崩壊機構及び崩壊土砂の流動現象等についての科学的解明が十分になされていなかつたので、散水による斜面の崩壊によつていかなる危険が発生するか予測し難い状況にあつたのであるから、崩壊実験を担当する被告人らとしては、土砂流下の危険がある実験斜面の下方には絶対に見学者等を入れないようにし、もつて崩壊実験による危害の発生を未然に防ぐ業務上の注意義務があつたにもかかわらず、被告人両名ともこれを怠り、崩壊実験三日目である同月一一日、見学者、報道関係者ら多数を前記しがらみ柵直下まで招じ入れ、その状態で同日午前九時一五分ころから漫然崩壊実験を継続した被告人両名の過失の競合により、同日午後三時三〇分ころ、通算平均六九〇ミリメートルに達する多量の人工降雨によつて実験斜面上の前記捨て土等約二七二立方メートルが崩壊し、これが秒速約一七メートルの高速度で流下して、前記しがらみ柵下にいた見学者、報道関係者ら多数を埋没させるに至らせ、よつて、そのころ、同所において、右埋没あるいはその際の土砂の激突等により、佐武正ほか一四名を窒息等により死亡させ、Aほか七名に対し、左前脛骨筋断裂等の傷害を負わせた。」というものである。

なお、検察官の主張及び立証の経過に照らすと、右公訴事実中、「散水による斜面の崩壊によつていかなる危険が発生するか予測し難い状況にあつた」とする部分は、「散水による斜面の崩壊によつて、多量の土砂が高速度で流下してしがらみ柵を乗り越え、斜面下に至る危険も予測された」との趣旨と解される。

(当裁判所の判断)

第一当裁判所の認定した事実

本件事故は、科学技術庁国立防災科学技術センター(以下、防災センターという。)、通商産業省地質調査所(以下、地質調査所という。)、建設省土木研究所(以下、土木研究所という。)及び自治省消防研究所(以下、消防研究所という。)の四機関による「ローム台地における崖崩れに関する総合研究(以下、本件総合研究という。)」における斜面の崩壊実験中に発生したものであるから、まず、本件総合研究の策定経緯、本件総合研究及びその一部である崩壊実験の実施状況、事故の発生状況並びにこれらについての被告人らの関与状況について概観することとする。これらに関し、関係各証拠から認められる事実は以下のとおりである。

一被告人らの経歴

被告人甲野は、昭和二七年三月京都大学農学部農林工学科(砂防工学専攻)を卒業し、同年四月島根農科大学助手となり、昭和二八年一二月から建設省河川局砂防課に勤務し、昭和三一年同省関東地方建設局利根川水系砂防工事事務所調査係長として勤務したのをはじめとして各地の砂防事務所で勤務し、この間主として砂防工事現場で山崩れ、崖崩れ、地滑り、土石流等の調査関係の仕事に従事し、昭和四〇年四月から防災センター第二研究部地表変動防災研究室長として勤務していたもので、本件総合研究においては、防災センターにおける担当研究室長として自ら崖崩れの履歴解析等の研究テーマをもつて参加していたものである。

被告人乙川は、昭和二〇年九月東京帝国大学理学部数学科を卒業し、大学院で応用数学を研究した後、昭和二一年九月から同大学数学科助手、文部省統計数理研究所員などとして勤務し、昭和二八年一一月から総理府資源調査会事務局に勤務して、昭和三一年三月科学技術庁資源局に配置換えとなり、昭和三八年五月から防災センター第一研究室長、昭和三九年四月から同センター第一研究部風水害防災研究室長、昭和四〇年五月から同センター第二研究部長として勤務していたものであり、本件総合研究には研究テーマを持たないまま、被告人甲野の上司として、これに関与していたものである。

二総合研究の意義及びこれに関する科学技術庁と防災センターの権限等について

1 いわゆる総合研究とは、科学技術庁に計上されている特別研究促進調整費(以下、特調費という。)により、複数の国の試験研究機関が参加して実施する総合的試験研究の一つであり、本件総合研究もこれによつて実施されたものである。特調費は、年度当初、科学技術庁に一括して計上され、その後研究計画が確定した段階で大蔵省との折衝を経たうえ、科学技術庁から研究を実施する各省庁の研究機関に示達、移し替えられるものである。科学技術庁は、関係行政機関の科学技術に関する事務の総合調整(総合的推進)、すなわち各研究機関の研究項目、研究予算等を整理統合し、各研究機関の研究が全体として効率的に推進しうるように調整する事務を行うことをその所掌事務の一つとしていることから(科学技術庁設置法第四条一二号、以下、引用法条はいずれも昭和四六年当時のものである。)同庁が総合研究の総合調整(総合的推進)を行うこととされ、同庁研究調整局がその事務を担当することとされていた。

2 科学技術庁研究調整局が担当する事務は、法令上、関係行政機関の科学技術に関する事務の総合調整のほか、科学技術に関する基本的な政策の企画、立案及び推進、関係行政機関の試験研究機関の経費、試験研究補助金、交付金その他これに類する経費の見積りの方針の調整、多数部門の協力を要する総合的試験研究及び各種研究に共通する基礎的研究の助成等の事務とされ(同法七条の二)、総合的試験研究で特に重要なものに係る総合調整、企画、立案、経費の見積りの調整及び助成等については、同局総合研究課において担当するものとされていた(同庁組織令一二条)。

3 一方、科学技術庁の付属機関である防災センターは、総務課、企画課などのほか第一ないし第三研究部などからなり(国立防災科学技術センター組織細則一条)、科学技術庁総合研究課の所管とされ(科学技術庁組織令一二条、同庁事務分掌規定八条)、多数部門の協力を要する総合的な研究及び試験を行うこと、共通の基礎的な研究及び試験を行うこと及びこれらの試験・研究を効率的かつ計画的に推進するための基礎的な調査を行う事務を担当するものとされ、そのうち、右基礎的調査事務は、防災センター企画課の所掌とされていたもので(国立防災科学技術センター組織細則三条、同事務分掌規定三条)、同センター第二研究部地表変動防災研究室においては、地表変動防災その他地象により生じる災害(地震災害及び火山災害を除く)に係る防災科学技術に関し、総合的試験研究、これに関する施設、設備、調査等に関する業務を行うこととされていた(同規定四条の二)。

4 ところが、そもそも防災センターが設立された理由が防災科学技術においては、各種の科学技術の学際的な部分が多いため、それらを総合して防災科学技術を発展推進させる必要があるということであつたため、防災に関する総合研究においては、研究計画の最終的決定は科学技術庁研究調整局が行つていたものの、昭和三八年に防災センターが設立されてから、昭和四三、四年頃までは、研究テーマの選定、研究テーマ決定後の実行計画の策定、予算要求書の作成等の過程において、防災センターがむしろ中心的役割を果たす状態にあり、その後も防災センターが相当程度関与するのが常態となつており、右事務的手続きはもとより研究実施面においても、防災センターの担当研究室(総合研究において防災センターから参加する研究室)がその中心的役割を担つていた。すなわち、防災センター企画課が国の各研究機関に対して各研究機関の希望する総合研究のテーマや必要とする経費等について書面による調査を行い、各研究機関から提出された希望に基づき、同センター企画課及び担当研究室が協力して、それらを整理・統合して総合研究計画原案を作成し、同センター運営委員会幹事会、運営委員会(運営委員会は、防災センター所長が招集するもので、前記土木研究所等他の省庁の研究機関の所長や科学技術庁研究調整局の係官らが委員となつて防災センターの運営や研究テーマについて検討する機関であり、同幹事会は、主に研究テーマが他の機関の所管事務と重複しないかなどの観点からそのテーマについて検討していた。)の承認を得て、それを科学技術庁研究調整局に送付し、同局において更に研究テーマの相当性や経費について検討を加えたうえ、新規課題については庁議により決定し、大蔵省に対する予算要求を行い、大蔵省による予算の示達を待つて防災センターの担当研究室長が中心となり、研究を円滑に進めるべく活動するのを通例とし、その組織上の上司である部長は、行政上の文書の決裁や対外的折衝における関係機関への挨拶などにおいては防災センターの代表として行動していたものの、総合研究自体においては、むしろ担当室長の補佐的役割を果たすにとどまつていた。

三本件総合研究計画作成の実状

1 昭和四〇年七月防災センターは、神奈川県、通商産業省地質調査所、建設省土木研究所、運輸省気象研究所等の関係者を招いて崖崩れ研究会を開催したが、その際、神奈川県の出席者から崖崩れに関する研究の早急な推進を要請され、当時の防災センター所長和達清夫は、席上その検討を約束し、同年八月二日防災センター内部で崖崩れに関する研究の推進について会合をもつたりしたものの、その後所長の更迭などの事情もあつて結論の出ないままとなつていた。しかし、右研究の必要性については、防災センター内部でも十分認識されており、第二研究部地表変動防災研究室では、昭和三九年から昭和四一年にかけて、「噴出岩地帯並びに風化花こう岩地帯の崖崩れの機構及び予知に関する総合研究」を実施中であつたこともあつて、同研究室殊に室長である被告人甲野は、右総合研究を、都市域周辺の崖崩れの研究に発展させたいとの意図を持つていた。

2 そして、従来の取扱いに従つて、昭和四二年三月一六日、防災センター所長が招集して開催された防災センター運営委員会幹事会の決定に基づき同年四月一〇日、防災センター所長名で「昭和四三年度(新規)特別研究促進調整費による防災科学技術関係総合研究に関する資料提出方依頼について」と題する書面が建設省、農林省、通商産業省、自治省等の七機関の担当者に送付されたところ、そのうち、地質調査所からは「都市域における崖くずれ予知・予防に関する研究」が研究テーマとして提出され、防災センターとしては同センター第二研究部地表変動防災研究室から提出されていた「ローム台地におけるがけくずれの発生機構および予知に関する研究」を研究テーマとして提出したが、同年六月二六日の防災センター運営委員会において検討された結果、当時防災センターにおいて長崎県下における「北松型地すべりの発生機構及び予知に関する総合研究」が実施されていたこともあつて、右二つのテーマを昭和四三年度の課題として科学技術庁研究調整局へ要求することは見送られた。

3 そして、被告人甲野は、昭和四三年五月頃には、本件総合研究の実現を期して土木研究所に赴いて参加を慫慂するなどしていたところ、昭和四三年にも防災センターから各研究機関に対して昭和四四年度の総合研究に関する新規課題の希望調査が行われ、昭和四三年度と同様に地質調査所から「都市域における崖くずれの予知・予防に関する研究」、防災センターからは、「ローム台地におけるがけくずれの発生機構および予知に関する研究」という研究テーマが提出され、更に土木研究所から「ローム台地周辺のがけくずれ災害の予知に関する研究」という研究テーマが提出されたうえ、同年七月九日開催された運営委員会幹事会の席上、消防研究所からも「都市域における急傾斜地崩壊等の警防に関する研究」というテーマガ提出されたことから、同日の幹事会において、右四機関による崖崩れに関する研究を統合して新規の総合研究のテーマとして科学技術庁に提出することが了承され、更に同年八月二〇日に開催された運営委員会においても了承された。

4 そこで、被告人甲野は、部下のBとともに、昭和四三年八月防災センター第二研究部地表変動防災研究室から提出した資料に加え、地質調査所、土木研究所及び消防研究所から提出された資料をもとに、四機関の総合研究計画書の原案及び予算の概算要求書を作成し、防災センター企画課長に説明し、企画課と検討のうえ、各機関から提出されていた研究テーマの一部を削除するなどした後、同月九月三〇日地質調査所、土木研究所及び消防研究所等の研究者を防災センターに招請し、自ら司会役となつて、「ローム台地崖崩れについての総合研究打合わせ会」を開催し、本件総合研究が昭和四四年度の新規の総合研究として採択される可能性が高いこと、参加研究機関は、防災センター、地質調査所、土木研究所及び消防研究所の予定であること及び概算要求書の作成経過などを説明したうえ、総合研究としての研究テーマの統一を図るため、各研究者と協議して研究テーマや研究内容の削除、変更を行い、更に各研究機関の研究者に対し、同年一二月までに研究手法を整理するよう依頼した。

5 そして、各研究者間で検討した研究計画案をもとに、被告人甲野は、昭和四四年一月二五日に防災センター企画課と研究計画案について更に検討を加えたが(なお、この席には、被告人乙川も出席している。)、その際、企画課の示唆に基づき、科学技術庁の総合研究テーマ採択に際して本件総合研究が採択されやすいようにするためや、自然降雨による斜面の挙動観察では十分な資料が得られない虞れがあることから、研究項目として崩壊実験を組み入れることとした。そして、同年四月九日から、被告人甲野は科学技術庁の担当部局である研究調整局総合研究課の係官に対して研究計画書や概算要求書の内容について説明を行い、同係官の指示によつて室員のBなどとともに予算の積算資料などを作成提出したところ、同係官がその検討結果を研究調整局に持ち帰り、同局において多少の手直しを行つた後、科学技術庁における最終計画案として、ほぼ防災センターにおいて被告人甲野と企画課及び研究調整局係官らが作成した原案のとおりの内容のものが作成された。その後、同庁から大蔵省に対して本件総合研究の予算要求書が提出され、折衝が行われたが、右折衝に際しても防災センターに対して科学技術庁から資料を要求されることが多く、本件総合研究の担当研究室である第二研究部地表変動防災研究室の室長である被告人甲野が自ら作成し、あるいは室員であるBをして作成させてその要求に応じていた。これに対し、被告人乙川は、担当研究室長である被告人甲野の行政組織上の上司として被告人甲野の起案した文書について決裁することなどはあつたものの、研究計画の策定や予算要求事務については被告人甲野と企画課の間で直接検討がなされていたため、ほとんど関与することはなく、前記のように僅かに昭和四四年一月二五日の検討会に出席する程度であり、右のような事務的手続きについての関与状況は昭和四五年度以降も同様であつた。

6 そして、昭和四四年度分の各研究機関に対する予算の示達は、昭和四四年秋ころになつて行われ、本件総合研究は、「ローム台地における崖くずれに関する総合研究」という名称で昭和四四年度から昭和四六年度の三か年にわたる総合研究として、防災センター、地質調査所、土木研究所及び消防研究所の四機関によつて行われることとなつたが、昭和四四年度において策定された年次研究計画における各機関の三か年の研究項目と研究内容は次のとおりである。

(一) 地質調査所は、地質特性に関する研究をテーマとし、生田試験地、南多摩台地及び磯子台地において簡易試錐等による一般地質調査並びに物理探査等による地質構造及び基盤地形調査等を実施し、これらの要因と崖崩れとの関連について研究する。

(二) 消防研究所は、水理特性に関する研究をテーマとし、生田試験地に観測井を掘削し、降雨に伴う地下水面の変化の観測及び現場透水試験を行い、地下水と崖崩れとの関連について研究する。

(三) 土木研究所は斜面の安定性に関する研究をテーマとし、生田試験地内の実験斜面に間隙水圧計、含水量計及び歪計を設置して、降雨に伴う斜面の挙動を観測するとともに、ロームの物理性、力学性試験を行い、斜面の安定性に関する研究を行う。

(四) 防災センターは、斜面の崩壊機構に関する研究をテーマとするほか、更に本件総合研究の総括を行うこととされ、具体的には生田試験地周辺、南多摩台地、磯子台地の空中写真を撮影し、既往の空中写真と対照して崖崩れの履歴解析を行い、生田試験地の地形図を作成し、生田試験地のロームの鉱物分析、振動特性の観測を行い、崩壊機構との関連について研究し、更に生田試験地の試錐を行うこととされた。また、この時点における年次研究計画においては、防災センター、消防研究所及び土木研究所が生田試験地において昭和四五年度に崩壊予備実験、昭和四六年度に崩壊実験を行うこととされていた(昭和四五年度及び昭和四六年度において作成された年次計画においては、崩壊予備実験及び崩壊実験は防災センターのみが行うこととされ、消防研究所及び土木研究所は、右各実験時の調査・観測を行うこととされている。)。

四昭和四四年度以降の研究計画の策定及び予算要求事務並びに実験斜面選定の経緯等について

1 被告人甲野は、昭和四四年度の予算要求に関する事務を行うのと並行して、昭和四四年一月から同年五月にかけて土木研究所、地質調査所及び消防研究所の研究員と昭和四四年度の研究実施計画の詳細を打合わせ、昭和四四年九月一七日防災センターに右各研究機関の本件総合研究参加者を招請して第一回総合研究連絡会(研究連絡会は、形式上防災センター所長から公文書で各研究機関に対して開催通知が出されるが、開催通知の起案等の事務は担当研究室長が行い、出席するのも実際に研究を担当する研究者であり、事実上研究者の自主的活動である研究打合わせ会と同様な会合となつていた。)を開催し、被告人甲野が予算が内示されるまでの経過及び総合研究の年次計画について説明したのち、本件総合研究を実施する斜面の選定など、研究実施の準備手続きなどについて討議し、各研究機関が担当する研究実施のための調査、計器測定、資料の作成、計器の設置、試錐等の実行計画の検討を行つた。

2 そして、実験斜面の選定については、被告人甲野は昭和四三年八月頃から地質調査所等と事前に検討を加えていたところ、同調査所が地質構造と崩壊の関係について広域的な調査をしていたことから、同調査所から候補地を挙げてもらうこととなり、同調査所からは、多摩丘陵の日本住宅公団用地内と、川崎の生田周辺地域が挙げられたが、前者は長期間にわたる借り上げが困難であることなどから実験斜面とすることができず、後者の生田周辺地域を中心としてその選定を進めることとし、長期間の借り上げの必要上、川崎市の公有地の中から実験斜面を選ぶこととなり、被告人甲野は、神奈川県知事及び川崎市長宛に防災センター所長名で協力依頼の文書を起案し、所長等の決裁を経て同年九月一三日ころ右文書を発送していたので、同月二二日被告人乙川とともに川崎市土木部公園課に赴き、実験の趣旨を説明して実験斜面として適当な候補地を挙げてもらつたところ、川崎市多摩区生田九三〇六番地先川崎都市計画第一号生田緑地公園の桝形山の北側及び公園内に所在するひようたん池の南側の斜面である本件実験斜面等が候補地として推薦された。そこで被告人甲野は、昭和四四年九月二四日及び同年一〇月三日、各研究機関の研究者を生田緑地公園に参集せしめ検討を加えたが、同日は決定するに至らず、研究者が希望した公園内の他の地点は公園側から公園の中心に近いという理由で使用を許可されず、各研究機関の研究者と協議した結果、水利等の観点から公園側から推薦された本件実験斜面を選定するに至つた。そこで、被告人甲野は、昭和四五年一月一六日川崎市土木部公園課を訪れ、再度本件総合研究の概要を説明したうえ、公園占用許可が得られるように交渉し、同年二月一六日公園占用許可申請書を同課に提出し、同月一八日川崎市長より、防災センター所長に対して、同月一五日から昭和四七年三月三一日までの本件実験斜面の占用許可が出され、被告人両名は昭和四五年三月一一日同課及び生田緑地公園事務所を訪れ、同事務所長に挨拶し、本件総合研究に対する協力を依頼した。

3 昭和四五年度の研究計画及び予算要求についても、昭和四四年度と同様に被告人甲野と防災センター企画課が協力し、各研究機関との打合わせを繰り返したうえ、科学技術庁に提出する四機関の予算要求書等を作成し、被告人甲野は昭和四五年五月には地質調査所のCや消防研究所のDが科学技術庁の係官に要求内容を説明する場に立ち合うなどして関与したが、昭和四六年度分については被告人甲野が予算要求書の原案を作成したものの、当時防災センターと科学技術庁研究調整局との間に起こつていた総合研究における推進、調整等の権限についての争いから、昭和四六年二月一六日防災センターで行われた科学技術庁研究調整局の係官に対する説明会を最後に、各研究機関の予算要求や研究計画については科学技術庁研究調整局が直接各研究機関からその希望について聴取することとなり、防災センター自体はもとより、被告人甲野も関与しなくなり、被告人甲野も単に防災センターの研究項目について科学技術庁の係官に対して説明するにとどまる状態となつた。

五本件総合研究開始後の研究実施面における防災センター及び被告人らの関与状況

防災センターは、前記のような研究計画の策定及び予算関係の事務的手続きにおいて中心となつていたのみならず、研究実施のための予算においても他の研究機関を凌駕し、三年間の研究費の総額は地質調査所や土木研究所に比べて五倍前後、消防研究所に比べても二倍以上の配賦を受けていた。そして、本件総合研究開始後も各研究機関のテーマとされている研究自体はともかく、その準備等については各研究機関の中心的機関として活動しており、防災センターにおいては本件総合研究の担当室長であつた被告人甲野がその中心として行動していた。すなわち、防災センターは、前記のように生田試験地の占用許可申請はもとより、他機関が使用する必要から行う占用許可申請についても他機関に代つて行うなど、本件総合研究を行う四機関の対外的代表機関としての役割を果たしていたうえ、被告人甲野も、実験斜面の選定、各年度の実行計画の詳細の検討等必要に応じて防災センターや現地に研究者を参集せしめ、研究連絡会、研究打合わせ会を開催して司会役をつとめ、更に研究の実施について必要な場合には各研究機関と個別に協議して打合わせを行うなどして、本件総合研究の実施面における円滑な進行をめざし、また、川崎市等関係機関へ協力依頼の挨拶を行つたり、地質調査所の行う広域調査のための協力依頼文書を作成したり、地質調査所や消防研究所の研究員のために関係機関を訪問して協力依頼を行うなどしていたもので、各機関の研究者も本件総合研究の主導的役割を防災センターが担当し、その担当研究室長である被告人甲野が、研究者の代表的役割を担うものであるとの認識を有する状態となつていた。これに対し、被告人乙川は本件総合研究において自ら研究テーマを持つておらず、しかも自己の専門分野と異なる総合研究であつたこともあつて、研究連絡会、研究打合わせ会にも都合がつけば出席していたにとどまり、出席した場合にも、主導的に関与することなく、単に参考意見を述べる程度であつて、本件総合研究が発足して最初の実質的な打合わせを行つた昭和四四年九月一七日の研究連絡会や、実験斜面の決定のための現地での打合わせにも参加しておらず、実験斜面についてはその場所が確定した後の昭和四五年一月になつて初めて訪れているほどで、単に被告人甲野の上司として被告人甲野とともに関係機関への挨拶等儀礼的行為に関与したのみで、本件総合研究に参加していた各研究機関の研究者も、被告人乙川は被告人甲野の助言者として参加しているに過ぎないとの認識を抱いていた。

六昭和四四年度の研究実施状況

前記のように、昭和四四年度分の研究予算の示達は昭和四四年秋になつて行われたため、同年度の研究実施も相当遅れ、昭和四五年二月二一日になつて開催された研究連絡会において昭和四四年度の諸作業についての連絡、調整が図られ、ようやく同年度の研究が実施されることとなつた。昭和四四年度分の研究当時は各研究員の間では地質構造を反映した崩壊、すなわち生田周辺台地では不透水性の飯室泥岩の上に透水性のおし沼砂礫層があり、更にその上にローム層があることから、地下水の影響によつて透水性のおし沼砂礫層の下部から崩壊するものと予測されていたため、作業は本件実験斜面に集中することなく、割合広範囲に行われることとなつた。各研究機関の昭和四四年度分における研究実施状況及び計測機器等の設置状況の主たるものは、次のとおりである。

1 防災センター

(一) ボーリング一四本(うち、実験斜面内二本、なお、ボーリングを行うに際しては、ボーリングによつて採取されたコアを地質調査所で鑑定し、ボーリング孔の一部に消防研究所が水位計を設置することとなつていたため、ボーリングの位置については現地で被告人甲野、地質調査所のE、C及び消防研究所のDが協議して決定している。)

(二) 生田周辺地区の縮尺五〇〇〇分の一の空中写真の撮影

(三) 地上測量による生田試験地の縮尺五〇〇分の一の地形図の作成

(四) 観測小屋の設置

(ロームの鉱物分析は、防災センター第二研究部地表変動防災研究室においてX線解析装置を借り上げる費用や崩壊実験に必要な器材の購入費を捻出するため、本件総合研究の研究テーマにいれられたもので、実際には各年度とも実施されなかつた。)

2 消防研究所

(一) ボーリング一五本(うち、実験斜面内二本)

(二) 地下水の挙動観測、現場透水性の測定

3 地質調査所

(一) 表層調査

(二) 防災センター及び消防研究所のボーリングによつて採取されたボーリングコアによる地質構造調査及び試錐柱状図の作成

(三) 弾性波探査による地質構造調査

4 土木研究所

(一) 間隙水圧計五個所の設置

七昭和四五年度の研究実施状況

昭和四五年四月二三日防災センターにおいて研究連絡会が開催され、崩壊実験の方法論(散水方法及び崩壊タイプの予測)及び生田試験地で各研究機関が実施を希望する項目について研究者間において討議したところ、ロームの透水係数が小さく、散水範囲が狭いことから従来考えられていた地質構造を反映した崩壊は期待できず、斜面の一部を削るなどの措置をとらなければ崩壊は期待できないのではないかという意見さえ出される状態であり、結局表層の一部が崩壊する型(表層型)を期待することとなつた。そして防災センターの招請によつて昭和四五年度中に現地において三回の研究打合わせ会が行われた後、それぞれの研究等が実施されるに至つた。各研究機関が行つた研究の実施状況及び計測機器等の設置状況の主たるものは、次のとおりである。

1 防災センター

(一)ボーリング一〇本(うち、実験斜面内六本、右一〇本の内、二本を消防研究所が地下水観測用として、六本を土木研究所が、パイプ歪計及び間隙水圧計設置用として使用している。)

(二) オーガーボーリング六本(いずれも実験斜面内)

(三) 弾性波検層一孔(地震計による地盤の縦横方向の振動を記録し、地盤の振動特性を求める調査)

(四) 常時微動測定二〇地点

(五) 生田試験地地盤調査並びにその他工事調査位置図の作成

(六) パイプ歪計の六地点五四箇所の設置

(七) 雨量計一箇所の設置(B雨量計)

(八) 崩土流出防護棚(以下、しがらみ棚という。)の設置(しがらみ柵は、被告人甲野が設計し、防災センターが発注して設置したもので、主として公園の風致上の配慮や実験斜面に研究者以外のものが入り込まないようにするため、また崩壊実験後防災センターの役割とされていた復旧作業を容易にする目的のもので、付随的に土砂流出防止の機能を持つに過ぎず、強度計算はされていない。その構造は、太さ一〇センチメートル、長さ1.8メートル位の丸太を八〇センチメートル間隔で地面に八〇センチメートル打ち込み、丸太の地上部分に細い真竹を何本も横に並べて柵のようにしたもので、長さは約一四メートルあり、実験斜面最上部から斜面距離五七メートルないし61.5メートルの位置に設置された。)

(九) コア格納庫(ポンプ小屋)の設置

2 消防研究所

(一) ボーリング一五本

(二)地下水の挙動観測及び現場透水試験

(三) 集水板及び導水路の設置

(四) 水位計二個所の設置

3 地質調査所

(一) 防災センター及び土木研究所のボーリングのコアによる地質構造調査及び試錐柱状図の作成

(二) 中性子水分計による検層一孔

4 土木研究所

(一) 簡易貫入試験一五個所(いずれも実験斜面内)

(二) スウェーデン式サウンディング一五個所(いずれも実験斜面内)

(三) オーガーボーリング六箇所

(四) 原位置試験二か所一六点

(五) テストピット及びブロックサンプリング二箇所

(六) パイプ歪計の設置九地点六二個所

(七) 鋼歪計の設置四地点一二個所

(八) 伸縮計四個所の設置

(九) 間隙水圧計三個所の設置

八昭和四六年度崩壊本実験前までの研究実施状況

昭和四六年度は、昭和四六年四月及び七月に崩壊本実験のための機器の調整等の目的で崩壊予備実験を行つたうえ、同年七月三〇日防災センターにおいて研究連絡会を開催し、各研究機関の研究の進捗状況や研究成果について検討し、更に崩壊実験についての打合わせを行い、被告人甲野が同年一一月に崩壊実験を行う意向である旨公表し各研究機関の担当者もこれに同意するに至つた。崩壊本実験に至るまでの各研究機関の研究実施状況及び計測機器の設置状況の主たるものは次の通りである。

1 消防研究所

(一) 地下水の挙動観測及び現場透水性の測定

(二) PFテンシオメーター一箇所の設置

(三) パーシャルフリューム流量計一箇所の設置

(四) 積算式流量計一箇所の設置

(五) 減水位水位型流量計一箇所の設置

2 地質調査所

(一) 中性子水分計による検層補足

3 土木研究所

(一) 生田試験地一〇〇分の一地形図の作成

(二) 弾性波探査(本件事故により中断のままとなつた。)

(三) 伸縮計四個所の設置

(四) 含水量計三個所の設置

なお、防災センターが担当した生田試験地周辺の履歴調査については、被告人甲野が試験地の植生、周囲の地形や人工施設(道路など)の有無・状態などを観察したり、あるいは昭和四五年一一月頃と昭和四六年三月頃生田試験地に隣接するゴルフ場の関係者にゴルフ場内でのボーリング作業の許可を得るため赴いた際、雑談的に聞いたり、同年一〇月頃生田緑地公園事務所に赴いた際に同公園事務所工務係長Fから、実験斜面上部に遊歩道を作つたとき、工事残土をいくらか実験斜面に捨てた話など、雑談的に聞く程度にとどまつていたが、これは同被告人において、生田試験地周辺台地等の空中写真による崖崩れ履歴解析は、防災センターが本件総合研究において実施する独立した研究項目の一つであつて、崩壊実験に必ずしも直結するものではないと考えていたことから、崖崩れ履歴の詳しい聞き込み等は崩壊本実験終了後に手を尽くせばよいと考えていたためであつた。

九崩壊予備実験の実施状況

本件総合研究の年次研究計画によると、崩壊予備実験は昭和四五年度に予定されていたが、予算の示達が遅く、準備の関係から昭和四六年四月二七日、二八日(第一回)及び同年七月七日、八日(第二回)に行われることとなつた。そして、第一回目の予備実験においては、量水堰を設置し、散水用のポンプ操作の習熟、レインガン(ポンプによつて送られ、その圧力によつて噴出する水を先端に取り付けられた羽根車によつて飛散させて水の散布を行い、更に全体も間歇的に回転して広い範囲に散水を行う装置)の性能テスト、測定計器の点検調整等が行われる予定であつた。崩壊実験すなわち斜面に散水して崩壊を起こさせる作業は、研究計画によつて防災センターが担当することとされ、そのための予算も防災センターに配賦されていたため、散水用ポンプやレインガン各三台及び接続ホース等は被告人甲野が中心となつて選定し、防災センターにおいて購入したうえ、すでに観測小屋に運び込まれていた(散水は、当初消防研究所において行うことが検討され、実験斜面に塔を立て、その上に斜面を覆うように細かく配管し、圧力計で圧力を調整してノズルから斜面全体に均等に散水させる装置を考えていたが、昭和四五年三月頃防災センター企画課から当時防災センターでは大蔵省に対して共用施設として同様の構造の大型降雨装置の予算要求をしているので、本件総合研究における散水方法については、それと競合しないように要求されたため、同年四月二三日の研究連絡会で協議したうえ、第二研究部地表変動防災研究室において検討を加え、被告人甲野が他の研究機関の研究者の意見も参考にしてレインガンの選定を行つた。)。そして、実際には、同年四月二六日から準備を始め、翌二七日からポンプ及びレインガンによる散水テストを行い、実験斜面に均等に散水するのに最も適した散水角度やポンプの圧力、ノズルの口径を検討するため、実験斜面下のひようたん池からポンプで水を汲み上げ、二台のレインガンを使つて実際に実験斜面に散水を行つたが、その散水量は、二日間で133.2立方メートル、雨量計による観測値は、285.5ミリメートルで、その結果土木研究所の設置していた伸縮計に変動が現れたことから、三〇〇ミリメートル程度の雨量で実験斜面には変動が現れることが知られた。第二回目の予備実験においては、ポンプの不調から散水等はできず、専ら測定計器の点検を中心として作業が行われたにとどまつた。なお、崩壊予備実験の際には、いずれの場合も実験斜面周辺の遊歩道に「実験中につきご遠慮下さい。」と記載した立て札を立てていた。

一〇実験斜面の状況及びこれに関する崩壊本実験時までの被告人らの認識

1 実験斜面は、前記のように川崎市多摩区生田九三〇六番地先川崎都市計画第一号の生田緑地公園内にあり、右生田緑地公園南西周辺部のひようたん池の南側に位置する。実験斜面は、標高約七〇メートルの遊歩道を谷頭とし、標高約四五メートルの地点にあるひようたん池に通じる斜面長約七〇メートル、斜面幅約二五メートルの谷斜面で、傾斜角度は、斜面上部の最も急なところでは斜度約四五度を越えるところもあり、上部は平均約三二度、標高五〇メートル付近で約二六度の急傾斜となつており、標高四五メートル付近では一〇度ないし四度の緩やかな傾斜となつている。

2 実験斜面の地質構造は自然堆積の安定した基盤層と、その上のルーズな堆積層から成り、その基盤層は、下方から順に標高約五二メートル以下に飯室泥岩層、標高約五二メートルから約60.5メートルの間におし沼砂礫層、標高約60.5メートルから約七〇メートルの間に存する古期ローム層から成り、谷頭の遊歩道付近から上方では、この古期ローム層の上に新期ローム層が堆積しており、実験斜面は基盤層内に刻まれた谷の谷頭部に当たる。

(一) 飯室泥岩層は生田周辺に存在する地層の中で最も固い不透水層であり、実験斜面上しがらみ柵から約二〇メートル上方付近において地表に露出している。

(二) おし沼砂礫層は、厚さ約九メートルで最大粒径二〇ミリメートル、厚さ約三〇ないし五〇センチメートルの礫層を数枚挟み、上部ほど粘土分が多く、下部ほど砂分が多い。飯室泥岩層との境界面から常時水がしみ出している。

(三) 古期ローム層はおし沼砂礫層の上に整合に載り、層相・組織の変化により下部の灰白色系古期ローム層と上部の褐色系古期ローム層に区分される。

(1) 灰白色系古期ローム層は、厚さ約三メートルの灰白色ないし淡黄色の層で、その下部から中部には厚さ二〇ないし三〇センチメートルの砂状の浮石層を含む部分が多いが、中部から上部には強い粘性をもつ凝灰質粘土の部分が多い。この層の砂状の部分のせん断抵抗は不飽和の自然状態では粘土層の部分のものとほとんど差がないが、飽和状態では約半分に低下する。これに対し粘土層部分は、その透水係数が一秒につき一〇万分の一センチメートルで、上層部からの浸透水に対し不透水層を成している。

(2) 褐色系古期ローム層は、黄褐色ないし暗褐色の層で、新期ロームに比べて固く締まり安定性が高いが、下部の灰白色系古期ロームに近い部分では不規則な割れ目が発達し、力学的に不均質である。この層は、灰白色系古期ローム層よりは透水性であるため、その下にある灰白色系古期ローム層との境界面から常時水がしみ出している。

(四) 新期ローム層は、褐色でかなり締まつた無層理の比較的均質な地層で、実験斜面の頂部で遊歩道の地下約一メートルにある浮石層から上部がこれに相当する。この地層の工学的性質は粒子結合の組織(骨格構造)の性質によつて、一般の沖積層・洪積層の粘性土に比べて、安定性が高いが、他方、練り返しまたは風化などによつて土の組織が破壊された場合には、安定性が著しく失われる性質がある。

3 ルーズな堆積層は、前記基盤面を覆うように堆積し、表土、旧崩土及び捨て土ロームから成り、おおむね標高約七〇メートルの谷頭から標高約六〇メートルの谷の上部に存在していたものである。

(一) 表土は、実験斜面外では現地表に出ているが、実験斜面内では捨て土または旧崩土に埋没している。表土の厚さは一般に三〇ないし五〇センチメートル、最大一メートル前後であり、基盤層より黒褐色で多孔質になつており、力学的性質及び透水性は概して捨て土と同様である。

(二) 旧崩土は、昭和三三年台風二二号(狩野川台風)に伴う豪雨により実験斜面が崩壊した際、その崩壊土砂の一部が斜面上に残留したもので、基盤面または表土の上に載つている。その力学的性質は基盤面に比べ不均一になり、多孔質・軟弱で安定性に乏しい。

(三) 捨て土ロームは、昭和四二年に実験斜面上端の遊歩道の設置工事に際し、新期ロームの斜面を切り取つた際生じた土壌で、ブルドーザーにより谷の上部に押し出された表土及び崩土の上に分布する人工堆積物で、ルーズな堆積物の主要部分を成していた。この捨て土は、実験斜面の中央部が厚く、東部と西部が薄く、また実験斜面の下部集水板に近くなるほど薄くなつていたもので、その内部は新期ロームの直径三〇センチメートル以下の種々の大きさの塊状部分と、さらに細かく砕かれて間を充填する部分から成り、その中には直径二〇センチメートル程度の松などの樹木の幹・枝葉が多く埋められ、底面には小枝や松葉が敷きつめられたような状態のところもあつて、自然堆積のロームに比べ、全体として強度的性質が低下し、一軸圧縮強さは自然状態の一〇分の一程度で極めて崩れやすく、透水性が増し、かつ不均質である。

なお、ローム斜面崩壊実験事故調査委員会の調査結果によれば、捨て土ロームの土量は約三二一立方メートルで、ルーズな堆積層は全体として約四三八立方メートル存在したとされているが、証人G及び同Hによれば、捨て土ロームの土量は二一八立方メートル程度と計算されている。(第五〇回公判調書中の証人H及び第五二回公判調書中の証人Gの各供述部分)

4 実験斜面の中央部すなわちルーズな堆積物のあつた部分には、三メートルないし五メートルの帯状のウイービング・ラブグラス(三年生の牧草で斜面の表層の土壌の剥離を防ぐため播種される植物)が着生し(ただし、昭和四六年頃にはおおむね枯れていた。)、東側は笹、雑草、灌木などがあり、西側は一部は笹、雑草、灌木で、一部はほとんど裸地に近い状態であり、集水板の下には数メートルにわたつて笹を主とした雑草が生え、その下方には篠竹や雑木が生え、斜面の周囲には最上部にひのき二列が植えられ、東側には樹冠の広い高木、西側には雑木林の後ろに高木があつて、樹冠が広がつている状態で、しがらみ柵付近にはメタセコイヤ等の高木が二〇本程度生えている状態であつた。

5 しかしながら、右の1ないし4の記載の実験斜面の地質構造については、被告人両名を含め各研究機関の研究者にとつて崩壊本実験実施前にすべて知りえたというものではなかつた。実験斜面の地質構造や土質については本件総合研究の研究項目からも明らかなように、地質調査所及び土木研究所が中心として担当することになつていたものの、ボーリング等の調査によつて実験斜面を乱さないため、これらの試験は実験斜面内においては僅かしか行えず、地質調査所及び土木研究所においても実験斜面の地質構造や土壌の性質等について、その全体を把握することはできなかつた。なお、ローム斜面崩壊実験事故調査委員会の調査報告書においても、捨て土、旧崩土、表土などの力学的性質、透水性は、局部的変化が極めて大きく本実験前の調査で斜面全体の細部を把握することは不可能であつたとし、事故後に詳細な土質調査・試験を行つても実験斜面の捨て土、旧崩土、表土、基盤層の土質が極めて複雑であるため、それらを代表する特性値を求めることは困難であり、特に捨て土については更に多数の試験値を求めたとしてもその強度的数値を求めることは不可能に近いとの結論に達している。しかも総合研究は各研究機関が共同で行うものではあるが、その研究成果は各個人のものとして扱われるのが通常であつたため、地質調査所及び土木研究所の研究成果については、研究連絡会や研究打合わせ会で公表されないかぎりは防災センターが直接入手することは困難な状態であつた。防災センターが直接入手しえた資料は、防災センターが昭和四四年度及び昭和四五年度に業者に委託して行つたボーリングコアに関する資料や、履歴調査による過去の崩壊状況に関する事実程度であり、他研究機関からの情報としては、消防研究所のDから地下水の観測の中間的成果や第一回の予備実験時の中間流出量等について報告があつたほかには、僅かに昭和四六年七月三〇日の研究連絡会で地質調査所のEから、実験斜面の地質断面図や数枚の地質柱状図を示して実験斜面の地質構造についての説明があり、その後被告人甲野の要求によつてEから地質柱状図が送られてきた程度であり、土木研究所からは、スウェーデン式サウンディング等の地盤調査の結果について何等の研究成果の報告もなく、被告人甲野の問い合わせに対して、土木研究所の研究担当者であるIから、オーガーボーリングの結果、実験斜面の地表から三メートルの内、上半分は下半分に比べて軟らかい土質であるとの漠然とした回答を得ただけであつた。しかも、Eの作成した地質断面図によれば、実験斜面の上層部はすべて立川ローム層となつており、地質柱状図のなかには深さ約二ないし三メートルのところに「人工的にカクランされている?」「最下部に木幹あり」などという記載があるものもあつたにもかかわらず、Eからは研究連絡会、研究打合わせ会はもとより、その他の機会においてもなんらの指摘・説明もなされない状態であり(Eの方では、資料を甲野に渡せば、あとは甲野が考えればよいという態度であつた。)、右の点について研究者間で話し合われたこともなかつたため、被告人甲野としては、崩壊本実験に至るまで履歴調査から得た資料や前記のような断片的な情報によつて、実験斜面の上部はおおむね立川ロームであつて、実験斜面の上部には僅かな捨て土ロームしかなく、実験斜面は全体として安定した斜面であつて、崩壊の規模もごく小さいものとの認識を有する状態であつた。そして、被告人乙川もおおむね研究連絡会等に出席した際に得た情報や被告人甲野から聞かされた情報を得るにとどまつていたもので、土質や地質構造についての専門的知識もなかつたことから、被告人甲野以上の認識を有することはなかつた。

なお、右のように関係四機関の研究者相互間で情報交換が乏しく、まとまりを欠いていたことは、本件総合研究が右四機関の共同研究であつて、四機関がそれぞれが独自の主体性を持つて研究に参加し、どの機関が指揮・命令的であるという序列等はなく、いわば平等の立場での緩い集合体であるというように認識されていたため、やむを得ない結果であつたといわなければならない。

そして、崩壊の規模、程度、崩壊土量、その速度、流下範囲等、崩壊実験の後始末的部分の見通しについては、崩壊に至るまでの経過観察に主眼が置かれていたため、研究連絡会又は研究打合わせ会の席上でも論議されたことはなく、地質調査所のCのごときは、実験斜面を何度も見た所見と従来の経験から、崩壊土量は約三三〇立方メートルに及ぶであろうと考えていながら、このことを被告人甲野に伝えないままでいたし、土木研究所のJ(急傾斜地崩壊研究室長)は、実験斜面は斜面の下を切り取つて不安定な状態にしないと崩れないという意見を述べたことがあり、同研究室主任研究員のIも、実験斜面は雨が降つても間隙水圧が上がらないような地層構成だから、大きく崩れることはないと考えていたことから、被告人甲野に聞かれた際、僅かしか崩れないだろうと答えていた有様であつて、被告人甲野としては、実験斜面の崩壊が大規模で危険な事態に及ぶ可能性について、適切な情報を得ることができないまま、崩壊本実験に臨むに至つたものであつた。

一一崩壊本実験の実施状況

前記のように、崩壊本実験の実施時期については、昭和四六年七月三〇日の研究連絡会において被告人甲野が同年一一月上旬に行う旨提案し、各研究者の同意を得ていたところ、同年一〇月初旬Bが起案し、被告人甲野が一部修正したものを基に、防災センターにおいて崩壊実験の作業計画書等を作成し、崩壊実験を同年一一月四日ないし六日を第一次、同年一一月九日ないし一二日を第二次として行うこととして、崩壊実験計画書、崩壊実験作業計画書、作業実施細目及び崩壊実験観測要領等の各書面を各研究機関に対して送付し、崩壊実験はそれにそつて実施されることとなつた。被告人乙川は右各書面が各機関に送付された後、被告人甲野から見せられたに過ぎず、その作成には関与しておらず、了承を与えたこともなかつた。

1 第一次本実験の実施状況

(一) 昭和四六年一一月四日生田試験地の観測小屋に防災センターから被告人甲野・H・Bが、土木研究所からI、Kが、消防研究所からD、Lが参集し、同月六日までの各研究機関の作業計画を打合わせたうえ、各研究機関ごとに計測機器の最終的点検調整等の作業を実施し、防災センターでは、伸縮計二箇所、雨量計Cの設置、その他計測機器の準備調整のほか、崩壊の様子をビデオテープレコーダーで撮影する予定だつたので、被告人甲野及びHがその撮影の支障となる実験斜面中央部約四〇平方メートルの木の枝や篠竹の刈り払い作業を行つた。なお、その際第二次本実験における計画散水量について、一一月九日は四〇ミリメートル、一〇日は一〇〇ミリメートル、一一日は三二〇ないし三八〇ミリメートル程度とすることが打合わされた。

(二) 第二次本実験は、同月九日からの予定であつたが、計測機器の調整等のため作業はその前日の八日から始められた。そして、同月九日朝被告人甲野は、各研究機関の研究者を観測小屋に参集させ、参加者に対し本実験に入る旨実験開始の挨拶を行い、Bに作業計画及び防災センターにおいて作成していた各参加者の作業及び観測等に関する任務分担について説明させ、各参加者は、その分担にしたがつてレインガン、ポンプ等の設置及び散水作業、崩壊状況を撮影するビデオテープレコーダー、メモモーションカメラの設置並びに計器観測等の作業を開始するに至つた。なお、本件総合研究開始時から第二次本実験に至るまでに設置された主たる計測機器等の設置状況は別紙一のとおりである。第二次本実験に参加した各研究機関等の参加者は、防災センターから被告人甲野、被告人乙川、B、H、M及びN、消防研究所からD及びL、土木研究所からI、K、及びO並びに作業の補助として消防研究所が雇い入れた民間会社の作業員三名であつた。ただし、被告人乙川は同月九日夕方作業終了後実験地に到着し、その時点で初めて自己の任務分担を知らされて参加したもので、M及びNは応援のため途中から参加したにとどまる。

(1) 第二次本実験時の各研究者の任務分担は次のとおりである。すなわち、観測小屋において計器観測を行うのは、防災センターのB、H、土木研究所のK(レインガンA及びBの見回りも兼ねる)、ビデオテープレコーダーの担当が防災センターのM、N、メモモーションカメラの担当が土木研究所のI、O、ポンプの操作を担当するのが消防研究所のD、レインガンCの担当がL、そして被告人甲野及び同乙川は巡回の名称で、見学者の応対、斜面の見回り等を担当することとなり、散水作業や観測等について特定の作業を担当することはなかつたが、崩壊実験に参加していた各研究機関の研究者は、被告人甲野の崩壊実験時の役割について、崩壊実験の中心として実験の進行役を務め、同被告人の判断によつて実験の進行、中止等が決定されるものとの認識を有していた。

(2) 散水作業は同月九日午後五時二〇分から三系統の散水設備、すなわち実験斜面の頂上付近に設置されたレインガンB、実験斜面の両側に一台ずつ設置されたレインガンA及びCの合計三台のレインガンを使用し、斜面下の池畔に設置したポンプで池の水を汲み上げ、ポンプとレインガンの間をホースで連結して水を拡散させながら散水するという方法で開始され、同日午後六時一〇分、雨量がB雨量計で42.5ミリメートル、C雨量計で三一ミリメートルとなつた時点で作業は中止された。

(3) 翌一〇日は、午前八時三〇分から順次二系統のレインガンで散水が始められ、午前一〇時五二分、一旦散水が停止された後、午後三時三〇分から三系統のレインガンで散水が実施され、午後四時二〇分頃被告人甲野が散水の中止を指示したが、Bの意見もあつて、なおしばらく散水を続けた後、午後四時四〇分頃散水を中止した。B雨量計で116.5ミリメートル、C雨量計で八一ミリメートルの雨量が観測された。

(4) 事故の当日である一一日は、午前九時一五分頃被告人甲野が実験開始の宣言をして散水が開始され、事故が発生するまで続けられた。この間、被告人甲野は、Bから観測データが十分とれているから散水を中止してはどうかと提案されたが、散水をして続行する旨決定したこともあり、午後二時までは順次二台のレインガンにより、それ以降は、三台のレインガンにより散水が継続され、崩壊時までの雨量は、B雨量計で三二五ミリメートル、C雨量計で二五二ミリメートルとなつていた。この間、被告人甲野はポンプやレインガンの作動状況を監視したり、他の研究者の作業を手伝い、あるいは観測小屋の観測データを見るなど、実験の進行状況の把握に努めるとともに、見学者の応対に従事し、被告人乙川は、主として実験斜面の下方で見学者の応対を行いながら実験の進行状況を見ていた。

一二散水による斜面の変動状況

三日間にわたる前記のような散水作業の結果、事故当日の昭和四六年一一月一一日には実験斜面に設置された計測機器に次のような変化が観測された。

1 散水の表面流出量

午前九時から午前一〇時までの一時間に約2.2立方メートルであつたものが、その後一時間ごとに、4.2立方メートル、5.6立方メートル、7.1立方メートル、7.7立方メートル、8.8立方メートルと増加し、更に午後三時からの三〇分間だけで7.2立方メートル(一時間当たり14.3立方メートル)と急増している。

2 間隙水圧計

実験斜面内に設置された間隙水圧計八箇所のうち、崩壊地内あるいはその直近にあり、かつ崩壊時まで計測されたものは、(1)崩壊斜面内最下方の深度五メートルに設置されたもの、(2)崩壊斜面内中央部の深度11.4メートルに設置されたもの、(3)斜面下方の深度10.2メートルに設置されたものの三箇所で、(1)は、午前八時五〇分に0.09キログラム(一平方センチメートル当たり、以下同じ。)であつたものが、午後三時には0.15キログラム、そして午後三時三〇分には0.480キログラムと五倍に達しており、(2)は、午前八時五〇分に0.165キログラムであつたものが、午後二時から上昇を始め、午後三時三〇分には0.940キログラムに達しており、(3)は、午前八時五〇分には0.335キログラムであつたものが、午後三時頃から上昇を始め、午後三時三〇分には0.81キログラムと急増している。

3 水位計

水位計によつておし沼砂礫層の地下水位が二箇所で測定されたが、東側の水位計S7では、一〇日に0.22メートルの上昇があつたに過ぎなかつたのに、一一日午後三時二三分には最高2.46メートルの上昇が見られ、西側の水位計S14でも、一〇日には0.22メートルの上昇に過ぎなかつたのに、一一日午後三時一五分には、同日午前六時より0.45メートルの上昇となつていた。

4 伸縮計

伸縮計に連続的変化が見られ始めたのは午後に入つてからで、防災センターの設置した伸縮計P1(別紙二のセ伸P1、以下本項における括弧内の表示は別紙二記載のものである。)では午後三時五分頃、P2(セ伸P2)では、午後三時頃、土木研究所の設置したNo.1(土伸1)では午後二時五七分頃、No.2(土伸2)では午後三時一〇分頃、No.3(土伸3)では午後三時一八分頃、No.4(土伸4)では午後三時三〇分頃からその変位が急激になつている。

5 歪計

崩壊斜面に設置された歪計のうち、その西部に設置された歪計P3(セパP3)の深度二メートルのところに午後一時一三分最初に変動が現れ、P2(セパP2)では午後二時三〇分から0.75メートルのところで変動が現れ始め、午後三時二〇分頃に急増し、P9(土パ9)では、午後二時五三分から午後三時一〇分に急激な歪の増加が見られる。中央部では、No.2(土パ2)の1.75メートルのところで午後二時一〇分頃に変動が現れ始め、午後二時三〇分頃に歪が急増している。また、東部では、P4(セパP4)の二ないし2.5メートルのところで午後三時一三分頃に変化が認められ、午後三時一八分頃に顕著となつており、P5(セパP5)では、1.25メートルの位置で午後三時五分頃に歪が急増しており、P10(土パ10)では、0.75メートルの位置で午後二時五三分頃から変動が急増した。

以上のように、各計測機器の測定値は、午後三時頃には、散水していた斜面の広い部分にわたつて変化が顕著な状態となつており、伸縮計等の変化は、トランシーバーを通じて各研究者に伝えられ、被告人甲野もその変化を認識していた。

一三安全対策及び見学者等に対する対応の準備状況

1 昭和四六年一〇月下旬頃、被告人甲野は、防災センターにおいて被告人乙川と雑談していた際、実験斜面に多少の捨て土があるという話をしたところ、それを聞いて崩壊規模が大きくなるのではないかと懸念した被告人乙川から、実験斜面に一般来園者が入らないようにするため、斜面下の遊歩道も含む周辺を立入り禁止にするよう、生田緑地公園事務所から警察に話してもらうように交渉してはどうかとの示唆を受け、同年一一月四日同公園事務所長に交渉したところ、同事務所長からは消極的な態度を示されたため、被告人甲野は、実験斜面周辺を正式に立ち入り禁止とすることはできないものと考え、予備実験時と同様に立て札を立てることとし、同月一〇日実験斜面の周囲の遊歩道四箇所に「崩壊実験につききけん」と書いた立て札を立て、道路に遮断のための荒縄を張つたりした。

2 また、昭和四五年六月二日に開催された研究連絡会においては、崩壊実験は一般に公開しない旨各研究者間で合意され、防災センターの所議においても報道関係者等に実験について積極的に宣伝しない旨報告されていたが、昭和四六年夏頃あるいは本実験直前、被告人甲野のところに報道関係者から実験についての問い合わせがあつたり、各研究者が関係する研究機関の研究者、学者等に実験が行われることを話したりしていたことを知つたため、被告人甲野は崩壊実験にはある程度の見学者があるものと予想していた(科学技術庁においても特調費による実験は原則として公開していたことから、独自に報道関係者に対して崩壊実験が行われる旨の情報を提供したりしていたが、被告人甲野ら各研究者はその事実を知らなかつた。)。そのため、被告人甲野は同年一一月九日見学者に配布する案内書を作成し、同月一〇日には被告人乙川と協議して、見学者等に対する応対をしがらみ柵からその下のひようたん池の付近で行うことに決め、更に被告人乙川の提案に基づき、崩壊が近づいた際には警笛を鳴らして各研究者や見学者及び報道関係者の注意を促すこととし、同月一一日には被告人乙川と協議のうえ、ひようたん池を迂回して実験斜面下に至る関係者通路の標識を立てるなどの作業を行つた。

3 また、実験に参加する各研究者の安全対策については、保安帽の着用とトランシーバーによる相互の連絡及び前記のような警笛による注意喚起を行うことが話し合われた程度であつた。

一四見学者の参集及び事故の発生

1 昭和四六年一一月一一日は、前記のとおり午前九時一五分頃から散水作業が始められたが、間もなく報道関係者が実験斜面周辺に集まり始め、その後見学者等も増え続けたが、実験斜面周辺においては、斜面上部は散水がなされており、その下の斜面左右側は樹木等があつて見通しが悪いことから、崩壊の予想される斜面の状況を見るのに適当な場所はしがらみ柵下方のみであり、関係者通路の標識も同所に通じることとなつていたうえ、被告人甲野や、被告人乙川が同所で見学者等に応対していたり、休息用の椅子が置かれていたこともあつて、その多くは実験斜面下のしがらみ柵下方で、実験の進行状況を見学し、あるいは崩壊の撮影準備等を行う状況となつた。

2 そして、実験開始後、各研究者にトランシーバーを通じて雨量その他のデータが伝達され、被告人甲野は、それまでの資料に加え、当日の観測データを総合して、捨て土量は予想よりも大きい二〇〇立方メートルぐらいあり、崩壊の規模もそれまで予測していた二、三十立方メートルより大きい五〇ないし最大一〇〇立方メートル程度になるかも知れないと考えるに至つたが、崩壊が起こつても土砂の流速はそれまでの経験からせいぜい毎秒六メートル程度のもので、しがらみ柵手前でとまるものと考え、同柵付近では泥しぶきがかかる程度であろうと被告人乙川に話し、被告人乙川も独自に判断するに足りる資料や経験もないことから、被告人甲野の判断を信頼し、被告人らはしがらみ柵下で見学者等の応対を続けていたところ、同日午後三時二三分頃トランシーバーを通じて観測小屋から崩壊の近づいたことを知らせる警笛が鳴り、被告人甲野がハンドマイクで崩壊が近い旨の説明を行つたため、しがらみ柵付近にいた見学者や報道関係者はカメラを構えたり、しがらみ柵に近づいて崩壊状況を観察する態勢を整えたりしていた。同日午後三時二九分頃再び崩壊が切迫した旨の警笛が鳴り、その約一分後の同日午後三時三〇分頃実験斜面上部の一角が盛り上がり、急激に土砂が実験斜面下方に流下して崩壊が始まり、これによりしがらみ柵の東よりにいた被告人らを含む見学者、報道関係者ら八名が押し流され、付近にいた他の見学者等も足をさらわれたり、押し倒され、続いてより多量の土砂が流下して一八名が押し流され、そのうち三名は自力ではい出したり、救出されたが、公訴事実記載の一五名が死亡し、被告人ら及び地質調査所のEのほか、公訴事実記載の八名が負傷した。

第二被告人らは安全管理の責任の主体であつたか

弁護人ら及び被告人らは、被告人らは他の研究機関の参加者と同等の立場で本件総合研究に参加し、世話役としての役割を果たしていたものに過ぎず、本件総合研究及びその一部である崩壊実験において安全管理や安全で効率的な推進に責任を有するものではない旨主張するので、検討する。

一本件総合研究の実施経過及びこれに関する被告人らの関与状況は、第一において認定した通りであるが、右認定事実によれば、法令上、総合研究の総合調整(総合的推進)は、科学技術庁研究調整局の所掌とされていたとはいうものの、研究という業務の特殊性からして、各研究機関が研究を実際に実施する過程において、同局がその総合調整を行うことは困難であつたため、同局が関与していたのは、総合研究に関係する行政事務の範囲に限られていたのであつて、右事務についても昭和四三、四年頃までは、防災センターが事実上研究調整局から委任を受けたような形で関与し、本件総合研究においても、その実施が検討され始めた時点から昭和四六年二月に至るまで相当程度関与していたうえ、四機関が共同で使用する実験斜面の占用許可申請等の研究実施面における対外的交渉も行つていたものであり、更に被告人甲野は本件総合研究における防災センターの担当研究室長として本件総合研究の実現に向けて種々活動し、防災センター分のみならず、他の研究機関の予算要求事務等についても相当程度関与していたうえ、研究実施面においてもそれを効率的に推進するために、度々参加研究機関の研究者を防災センター及び現地に参集させて研究連絡会、研究打合わせ会等を開催し、あるいは個別に各研究機関と協議して研究の進行状態の確認や研究実施の詳細について検討したり、他の研究機関に代わつて、その研究機関が実施する研究に必要な手続き等を行うなど主導的役割を担い、本件総合研究に参加する研究者の代表的行動をとつていたもので、本件総合研究に参加していた各研究機関の研究者も、防災センターが本件総合研究の代表者的機関であり、被告人甲野が研究者の代表的役割を担つていたものとの認識を有していたことも総合考慮すれば、法令上はともかく、事実上は防災センターが本件総合研究の中心的機関としてその総合調整(総合的推進)を行い、防災センターにおいては被告人甲野がその役割を担つていたものであるということができ、被告人甲野は、弁護人及び被告人らの主張するような、単なる世話役に過ぎないものということはできない。

二本件総合研究における防災センター及び被告人甲野の役割は右のようなものであつたうえ、第一において認定したとおり、崩壊本実験は年次計画上防災センターの研究計画とされ、それに関する予算の配賦も防災センターに対して行われていること、崩壊実験に必要な散水装置の選定を被告人甲野が最終的に行い、防災センターにおいて購入していること、崩壊実験後の斜面の復旧作業も防災センターにおいて行うこととされ、それに関連してしがらみ柵の設置も被告人甲野が設計して、防災センターにおいて行つていること、崩壊本実験の実施に際しても、防災センターにおいて崩壊実験計画書等の書面を作成して各研究機関に配布したり、参加する研究者の任務分担を決定したりしていることなどの事実に照らせば、崩壊本実験が防災センター、土木研究所及び消防研究所の三機関による共同実験であつたか、防災センターのみが崩壊本実験を行い、土木研究所及び消防研究所はその際に調査・観測を行うだけであつたかはともかく、崩壊本実験において、防災センターが参加していた三機関の中心的機関とされ、防災センターが主導的に行つた実験であつたことは明らかであり、右事実に加え、被告人甲野が第二次崩壊本実験の開始に際して、参加研究者に対して実験開始の挨拶を行い、事故当日にも散水作業開始の宣言を行つたり、散水作業の中止や続行などの判断をしていること、被告人乙川とともに関係者通路の標識を立てて見学者及び報道関係者をしがらみ柵下に誘導し、見学者等に対する応対を行い、研究者の対外的代表として行動していること、崩壊本実験に参加していた研究者も被告人甲野の役割について、実験の進行役として実験の進行、中止等の決定するものであると認識していたことなどの事実に鑑みると、防災センターが中心となつて行つた崩壊本実験において、本件総合研究の発足段階から崩壊本実験に至るまで、参加研究者の中心として行動して事実上の推進役にあたり、斜面崩壊という事態の発生を考えていた被告人甲野が、条理上崩壊本実験の遺漏のない進行及びこれに付随して発生する危険に対して、安全管理の責任を負担する立場にあつたことは十分認めることができる。なお、弁護人らは、本件当時には、二以上の省庁が共同して行う共同野外実験において、安全管理の総括責任者の設置をすべきとする人事院規則一〇−四(職員の保健及び安全保持)八条二項の規定がなかつたことをとらえて、右規定の制定前である本件時において被告人らに安全管理責任がなかつた旨主張するが、被告人甲野が本件において負担する安全管理責任は、本件総合研究及び崩壊本実験の実施状況から認められる条理上の責任であるから、本件当時右規定が制定されていなかつたことは、被告人甲野の責任の存否に影響するものとはいえない。

三これに対し、被告人乙川は第一において認定したとおり、第二研究部の部長であり、行政組織上、同部地表変動防災研究室長である被告人甲野の上司として同被告人を指揮監督する権限・責任を有していたものであるが、本件総合研究は地表変動防災研究室がその直接の担当研究室であり、本件総合研究計画の策定やその予算要求事務については、担当研究室長である被告人甲野が直接防災センター企画課と検討し、あるいは他の研究機関の研究者等との打合わせをしていたこともあつて、被告人乙川はほとんど関与しておらず、研究実施面においても自ら研究テーマを持たず、研究者との会合にも時折参加していたのみで、実験斜面の決定等重要事項の決定にも関与しておらず、被告人甲野の上司として関係機関への挨拶等儀礼的行為に関与した程度であつて、本件総合研究に実質的に責任を持つて参加していたものということはできず、他の研究機関の研究者も被告人乙川は被告人甲野の助言者として参加しているに過ぎないものと認識していたことに照らすと、被告人乙川が本件総合研究において中心として総合調整(総合的推進)にあたつていたものということはできず、また崩壊本実験に際しても各研究機関の研究者の役割分担の決定について関与していないばかりか、自己の役割分担についてさえ現場に到着後知らされているほどであつて、その役割も主として見学者等の応対に限られ、被告人甲野と異なり実験全体の進行状況を把握するなどのものでなく、現実にも事故当日はしがらみ柵下方におり、主として見学者の応対にあたり、実験の進行状況を見ていたに過ぎず、被告人甲野に対して立入り禁止の措置や警笛を鳴らすことを提案しているものの、それも被告人甲野の助言者としての立場からの行動に過ぎないものと考えられることなどの事実に鑑みると、被告人乙川は被告人甲野の上司として本件総合研究及びその一部である崩壊本実験に参加していたとはいうものの、崩壊本実験全体を把握し、その遺漏のない進行や安全管理について責任を負うべき立場であつたということはできない(被告人乙川の捜査段階の初期における供述調書中には、私は実験実施の最高責任者として事故の責任を感じているとか、部下である甲野の判断が誤つていたとすれば、私も責任をとらなければならない旨の供述部分があるが、取調べに当たつた警察官の当時の判断が、事故直後における被告人乙川の自責的心境と相俟つてそのように調書上に表現された疑いが払拭できないから、右供述部分をもつて前記判断についての妨げとするには足りない。また、右供述調書中には、昭和四六年一〇月下旬頃、甲野から実験斜面には捨て土があるという話を聞いて、斜面の崩壊規模が大きくなるのではないかと心配になり、下の遊歩道まで立入り禁止にした方がよいのではないかと考え、甲野に相談した云々という部分もあるが、被告人乙川はあくまでも被告人甲野の助言者としての立場から、自己の単なる漠然とした危惧感からそのように発言したのに過ぎず、専門家として危険判断の責任者と見られる被告人甲野の判断にその後は従つていたと認めるのが相当であるので、この点も前記判断の妨げとはならないと解する。)。

第三写真解析による崩壊の実態

本件事故における崩壊の具体的状況は、前記事故調査委員会による報告書(以下、報告書という。)の写真解析等によつて次のようなものであつたことが判明している(以下、本項の記載については別紙二参照。)。

一昭和四六年一一月一一日午後三時三〇分05.4秒頃、実験斜面上部の土塊A・B付近が上向きにふくれ、両翼に広がるように運動を開始し、土塊Aは集水板開口部に向かい、約2.4秒後に集水板に達し、土塊BはS14水位計の方向に向かつて流下して、約0.6秒後にS14水位計に達して集水板を越え始めた(土塊Bは見学者の位置までは達せずに停止した。)。そして、土塊Bが集水板を越え始める頃、土塊Cが土塊Aの後を追うように集水板開口部の方向に流下し始めた。

二土塊Aは、集水板に達した直後、砕かれて集水板開口部に続く谷に流れ込み、開口部にあつたドラム缶を突き落とし、その通路にあつた木の枝や捨てられていた材料とともに流下し、斜面途中にあつた崖の部分で空中飛行して運動開始後約5.86秒後に見学者の位置に達して見学者を襲い、しがらみ柵東側にあつた三つのドラム缶量水ますの水も流下させ、しがらみ柵の東側にいて逃げかかつていた人々の足をすくい、あるいは足をすべらせて、東側の池の手前に突き落とし、または対岸に押し流した。そして、しがらみ柵の中央付近にいて東側の池と西側の池の間の遊歩道の方向に逃げた人々は足をとられたり、倒れたりし、しがらみ柵の西側にいた人々も足をさらわれたり、押し倒されてしまつたが、土塊Aの流下によつて死亡した人はいなかつた。土塊Aの速度は流下するにつれて増大し、土塊が泥流化して広がつたこともあり、見学者の位置では秒速16.9メートル(時速約六一キロメートル、運動開始から見学者の位置までの平均速度は毎秒九メートル)に達していた。ことに、集水板開口部からビデオテープレコーダーまでは摩擦係数を0と仮定しても(すなわち真空中と同様な状態)2.12秒かかるのに、写真解析によると1.7秒で到達しており、真空中よりなお速い運動が起こつたとされている。

三土塊Aの後を追うように、土塊C、その背後の土塊E及び土塊C、Eの東よりの土塊Fが土塊Aの流下に相接して中の谷を流下し、しがらみ柵西側にいて土塊Aの流下によつて混乱していた人々を襲い、これらを追うように西側の土塊Dが谷の西側よりを流下してしがらみ柵の中央付近にいて同様混乱に陥つていた人々を襲つて合計一五名を死亡させ、被告人らを含む一一名を負傷させた。また、土塊A及びCはいずれも薄層流に乗つて泥流化して同程度の速度で流下し、土塊D及び土塊Eの運動開始から見学者に到達するまでの平均速度は毎秒八メートル、到達までの時間は約八秒とされている(なお、他に土塊E・Gなどが崩壊しているが、直接本件事故の原因とはなつていない。)。

なお、土塊A・Cのうち、しがらみ柵を越えたものはそれぞれ約一〇立方メートルとされ、土塊Dは二〇立方メートル、土塊Eは四〇立方メートルの大きさのものであつた。そして、崩壊した全土量について報告書は272.2立方メートルとし、神奈川県警察本部交通指導課長作成の検査結果回答書(甲六二七号証)によれば、崩壊土量は集水板の上部で三七〇立方メートルとされているが、証人Gは、航空写真から同人が作成した地形図による計算によれば崩壊土量は約二一六立方メートルである旨供述し、更に右報告書や検査結果回答書の算出土量が異なるのは算出に使用した基本図面や作図機の精度が低いためである旨具体的根拠を挙げて詳細に供述するところ(第五二回公判調書中の証人Gの供述部分)、同人は国土地理院地理調査部の研究員であつて写真測量による地形図の作成について豊富な研究及び実務経験を有するものであることに照らすと、同人の作図及びそれによる崩壊土量の計算は信頼性が高いものということができ、崩壊土量は、二一六立方メートル程度であつたと認めるのが相当である。

第四予見可能性について

一本件における予見可能性の内容について

右のように本件事故は多量の土砂が高速度で流下したため発生したものであるところ、前記報告書によると、実験斜面には三二一立方メートルの捨て土が存在したとされ、前記Gは二一六立方メートルであるとし、同人の作成した地形図によつて捨て土量を算出したHは、その量を二一八立方メートル程度としているのであるが(第五〇回公判調書中の証人Hの供述部分)、捨て土量が三二一立方メートルであればもとより、二一八又は二一六立方メートル程度であつたとしても、その捨て土量は相当多量であり、しかも捨て土が自然推積ロームに比べて強度的性質が著しく低下していたものであることは前記認定のとおりであるから、本件事故発生前に二〇〇立方メートル程度の捨て土の存在を考えていた被告人甲野にとつて、その捨て土等の土砂が崩壊し、しがらみ柵を越えて高速度で流下することが予見できるものとすれば、構成要件的結果発生に対して予見可能性があるものということができる。

そこで、土砂の高速度流下の原因について検討するに、報告書はその原因を主として(1)土砂が数ブロックにわかれたこと(2)実験斜面に薄層流が発生存在し、その上を土砂が摩擦係数0という状態で流下したこと(斜面途中の崖部分で土砂が空中飛行したことも速度が増加したことの一要因とされているが、それは高速度流下の原因としては付随的なものと思われる。)であるとしており、(第五七回公判調書中の証人V《同証人は、事故調査委員会の委員で土質工学の専門家である。》の供述部分によれば、土砂がブロックに分かれず、一体となつて崩壊していれば、土砂は薄層流の上だけでなく、それが存在していない部分をも同時に流下することとなり、全体として摩擦係数が増大し、土砂は見学者の位置に達する前に運動を停止するものと認められる。)、他に格別の原因の考えられない本件においては、これらが高速度流下の原因と考えざるを得ず、したがつてこれらについて予見が可能であれば、土砂の高速度流下すなわち本件事故について予見可能性の存在を肯認できることになるので、以下右原因の予見可能性について検討する。

二土砂のブロック化について

報告書によれば、土砂が数ブロックに分かれて流下した原因として地形、地質及び土質の不均一性(土層の構造が一様でなく、複雑であつたこと)及び散水量の不均等が考えられるとしている。

1  そこで、まず散水量の不均等という要因についてみるに、報告書によれば、崩壊地内の平均雨量は、西部では七〇三ミリメートル、中央部では四八二ミリメートル、東部では五一五ミリメートルで、平均六九〇ミリメートル、西部の最も降水量の多いところでは九〇〇ミリメートル以上に達する所もあるとされている。崩壊当日における雨量計B及びCによつて観測された雨量の間にも七〇ミリメートル以上の差異があり、しかも実験斜面の周辺に雑木等が存在していたのであるから、それによつて各レインガンの散水が妨げられ、ある程度散水状態が不均等であつたことは容易に推認できるが、報告書にいうほどの不均等が存在したものと認めることはできない。すなわち、報告書の雨量は、昭和四八年に防災センターの大型降雨実験施設において二回にわたつて行われた降雨実験の結果に基づいて算定されたものであるが、その実験は平地に一〇〇個程度の缶を並べて設置し、一台のレインガンにより散水して散水状況のモデルを作つたというもので、それを基に第二次本実験において合計325.82立方メートルの散水が行われたことを前提とし、事故当日観測されたB雨量計の地点での降雨量三二五ミリメートル、C雨量計の地点での降雨量二五二ミリメートルの数値に合うようにコンピューターによつてモデルの散水状況をひずませて作成された資料によつて計算されたものであるが(第六二回公判調書中の被告人甲野の供述部分)、右散水実験は斜面外に落ちた水量すなわち実験斜面の周囲にあつた雑木等によつて遮られて斜面外に落ちた水量を考慮していないものと思われるうえ、事故当日のポンプA及びBによる送水量(すなわち実験斜面に散水した量)には、事故発生後の被害者救出のため汲み出した池の水量も含まれているものと認められ(被告人乙川作成の昭和六一年二月二〇日付答申書によれば事故当日のポンプBの一分間当たりの送水量は右ポンプの前日の一分間当たりの送水量の1.13倍であるのに、ポンプAが1.71倍、ポンプCが1.81倍となつており顕著な差異があり、しかも第一一回公判調書中の証人Bの供述部分によれば、事故後被害者救出のためポンプで池の水を汲み出していたというのであり、司法警察員作成の昭和四六年一二月一五日付及び同月一八日付各実況見分調書《甲二号証、四号証》及び司法警察員作成の昭和四七年四月三日付写真撮影報告書《甲五号証》によれば、ポンプBの量水計のみが事故によつて土砂に押し流され、ポンプA及びCの量水計は事故後もポンプと共に地上にあつて、ポンプA及びCに接続された量水計のみが事故後も作動可能な状態にあつたことが認められるのであつて、以上の事実を総合すればポンプA及びCの事故当日の送水量とされているものには、事故後被害者救出のため汲み出した池の水の量も含まれているものと認めることができる。)、報告書は実験斜面に散水された量を過大にして算出しており、その前提において誤りがあるものであつて、散水量の計算については信頼性が乏しく、ポンプA及びCがポンプBの事故前日の一分間当たりの送水量に対する事故当日の一分間当たりの送水量の比である1.13程度の送水を行つていたとすれば、事故当日の平均散水量は三四八ミリメートルとなり、B雨量計の観測値三二五ミリメートルに近く、雑木等の影響による斜面外に落ちた水量を考えれば、実際の平均雨量もB及びC雨量計によつて観測された雨量の範囲に近く、三日間の散水量の平均もB雨量計で観測された四八四ミリメートル程度であつたものと考えられ、事前に考えられていた計画散水量をそれほど上回るものではなかつたものと認められ、したがつて散水の不均等も報告書の指摘する程のものということはできない。そして、第五七回公判調書中の証人Vの供述部分によれば、報告書の散水量及び散水の不均等を前提としても、散水の不均等は土砂のブロック化の一つの因子ではあるが主原因とはいえないというのであるから、実際の散水量が報告書の前提としたものより少なく、したがつて散水の不均等も報告書の指摘する程のものということができないとすれば、土砂がブロック化して崩壊したことに対する散水の原因性は報告書の指摘するところよりも更に小さいものということができ、ブロック化の主原因は地形、地質及び土質の不均一性であり、散水の不均等は補助的に影響したに過ぎないものというべきである。

2  そこで、地形等の要因について検討するに、地形については、被告人甲野も試験地の植生、人工施設の有無等を観測しており、一定の知識を得ることはできたものと思われるが、前記認定のとおり本件総合研究において地質構造や土質の研究は地質調査所及び土木研究所の研究項目とされており、しかも崩壊本実験前において被告人甲野は右両機関から僅かな資料しか入手できておらず(本件総合研究の実態及び当時の研究者の研究資料の公開に関する慣習からすると、被告人甲野が前記認定の自己の認識以上に他の研究機関に対して資料の提供を求めるなどして、情報入手に努めるべきであつたとすることはいささか酷に失するものというべきである。なお、本件総合研究において地質調査所が実施した地質構造に関する報告は昭和四七年になつてからようやくまとめられている。)、それによつて実験斜面の地質構造や土質の詳細を認識することが困難であつたことはもとより、報告書によれば、土塊A、Bの下の基盤面は多少の凹凸があり、水がたまりやすく、浸透流が上向きに発生しやすい状態になつていたが、本実験前の調査によつてはそれを明らかにすることはできなかつたとされており、前記のとおり捨て土、旧崩土、表土などの力学的性質、透水性は局部的変化が大きく、本実験前の調査で斜面全体の細部を把握することは不可能であり、その分布も複雑で事故後の詳細な調査の結果を加味してもそれらを代表する特性値や強度的数値を求めることは困難ないし不可能であつたというのであるから、本件事故前に被告人甲野が有していた資料ないし情報から、実験斜面の地質構造や地質の詳細を認識することはできなかつたものというべきである。

3  しかも前記Vによれば、実験斜面の地質構造、特に表層部の捨て土、崩土の分布や量、土質及び力学的性質が判つても土砂が一体となつて崩壊するかブロックに分かれて崩壊するか判らず、本件当時、実験斜面程度の規模の斜面の崩壊においては、過去の事例からして土塊は一体となつて崩壊するのが通常であると認識されており、ブロックに分かれて崩壊したという事例の報告はなかつたというのであるから(第五七回公判調書中の証人Vの供述部分)、本件事故当時の被告人甲野の置かれた状況においては、一般通常人はもとより、専門家の立場からみても、土砂がブロック化して崩壊することを予見することは不可能であつたというべきである。

三薄層流について

報告書及び第五六回、第五七回公判調書中の証人Vの供述部分によれば、薄層流とは土砂の流下する地表に水の薄い膜のようなものができ、それがいわば土砂の滑り台のようになつて摩擦係数を減少させ、土砂の速度を速めるというものであり、実験当時、集水板開口部の下では表面流水を測定するために設置されていたドラム缶から水が流れ出しており、その付近からしがらみ棚にかけて地表が濡れていたため実験斜面に薄層流が発生したものであることが認められ、実験関係者にとつて右地表面の湿潤化は十分認識しえたものと考えられるが、他方、右各証拠及び千葉県作成の自然斜面における崩壊防止工法の検討(その2)によれば、本件事故当時まで土砂崩壊に関して薄層流という概念自体が学界においてさえ考えられていなかつたものであるうえ、土塊A及びCはいずれも摩擦係数を0として計算しても説明できない程の高速で流下したもので、地表面の湿潤化によつて土砂がこのような高速度で流下するという現象は本実験時まで全く経験されていなかつたものであること、右Vは本件事故後、土塊を薄層流にのせて滑らせる実験を行つたが(その実験は斜面距離約五四メートル、そのうち約三〇メートルは42.3度の傾斜角をつけた高さ約二〇メートルの斜面の表面に土を張り付け、その上に泥水の薄層流を造り滑りやすくしたうえ、土塊の大きさ、重量を変化させて滑らせたというもの)、その際観測された摩擦係数はおおむね0.3から0.45の範囲内にあり、最少でも0.29という値が一回観測されたのみであつたことも認められ(なお、被告人乙川作成の昭和六一年三月一八日付答申書によれば、摩擦係数が0.3以上の場合には土砂は見学者の位置に達する前に停止し、摩擦係数0.29の場合には見学者の位置には到達するものの、その速度は毎秒0.96メートルという極めて遅い速度となる、というのである。)、Vは本件事故時に発生した土砂の高速流下のメカニズムは解明できたとは考えていないとしているうえ、報告書と同様の結論に達しているのであつて、これらによれば本件事故当時、一般通常人はもとより、被告人甲野のような専門家にとつても実験斜面に薄層流が生じ、そのため土砂が摩擦係数が0、すなわち真空中を運動するような状態で流下することを予見することは不可能であつたというべきである。

なお、検察官はVの右実験について、固体でなく泥流を流せば摩擦係数は更に小さくなると思われる旨主張するが、Vの右供述部分によれば、泥流だから速度が速くなるとはいえず、水を流して同様な実験をした場合には次第に流体の厚みが薄くなつて速度が落ち、摩擦係数が0.29以下になつたことはないというのであるから、検察官の主張は当を得たものとはいえない。

四予見可能性についての検察官の主張について

検察官は本件において土砂の高速度流下は予見できるものと主張し、(1)公判において取り調べた証人P、Q、R、S、Tの各供述を引用して、実験斜面に存在していた捨て土は極めて脆く、多量の水分を含めば容易に崩壊し、しるこ状となり又は泥流化し、高速度で流れることは常識であつて、当時の学問水準でも容易に予測しえた旨、また(2)過去のの崩壊事例を検討すれば、泥流が超高速で流下する相当数の事例があり、被告人甲野自身が履歴調査においてUから実験斜面周辺が昭和三三年の狩野川台風の際に大きく、しかも速い速度で崩れたということを聞いていたのであるから、特に崖の崩壊機構には未解明の分野が多いことを前提として人命の安全を最優先させるならば、これらの過去の事例の検討によつて、本件の結果を予見することも可能であつたと主張する。

1 そこで、まず検察官の主張の根拠とされている各証人の供述について検討することとする。

(一) 証人Pは地学の専門家であるが、「実験斜面に捨て土があることは、簡単な調査ですぐ分かる。それに三〇〇ミリメートル程度の人工降雨を降らせても土砂は泥流化せず、しがらみ棚の手前で止まるが、それ以上に多量の人工降雨を降らせれば、捨て土が泥流化して流下することは、専門家であれば当時の学問水準でも当然予測可能であつた。本件崩壊のメカニズムは、実験斜面上の捨て土がその上の芝生・篠竹等の植生の根によつて押さえつけられた状態にあつたところに法外な散水をしたため、捨て土が水を吸収して飽和状態となつて泥流化し、植生が強い壁か網の役割を果たしていたところ、これが水の圧力により、限界に達し鉄砲の玉を弾き出すようにして突出した。降雨量と崩壊した場合の土砂の流速の関係は数字的に出すことは難しいが、降雨量が多くなれば崩壊土量も多くなるし、流下速度も速くなる。」旨供述しているが(第四四回公判調書中の証人Pの供述部分)、他方、同人は捨て土のようなロームの二次的堆積物が泥流化して流れることを見聞したことがないばかりか、むしろ同人の経験した二次的ロームの崩壊はいずれも泥流化せず、崩壊面が円弧を描いて崩れたものがそのまま止まつていたとも供述しているのであつて、その供述には一貫性がなく、また、前記のように土質工学の専門家であるVが、多くの経験と実験を踏まえたうえで証言していることと対比して説得力に乏しく、自己の経験あるいは見聞したことのない捨て土の泥流化及び高速度流下が本件事故当時予測可能であつたとする根拠に乏しく、直ちに是認することはできない。

(二) 証人Qは人文地理学の専門家であるが、「本件では池の水を吸いあげて上にあげ、それを斜面にかけているのだから土石流になつて水が土と一緒に池にもどるのは当然であつて、捨て土に大量の散水をすれば泥流化することは常識である。昭和四〇年に川崎市久末で発生した灰津波災害(比高約三〇メートルの谷の谷頭に堆積していた多量の石炭灰が泥流化して流れ出し、下流の人家を押し潰して多数の死傷者を出した災害)も本件事故と同じく泥流化して流下したもので、いずれも同じメカニズムである。崩れた土砂の移動距離は、崖と低地の比高の一〇倍以上であるということは常識であり、久末の災害では比高三〇メートルで泥流は三〇〇メートルも移動して多数の被害を発生させており、本件の場合池まで泥流が到達することは、当時の学問的水準からしても予測できたことで、久末の前例を頭においておけば、今回の事故は避けられたと思う。」旨供述しているが(第四三回公判調書中の証人Qの供述部分)、同人が本件において捨て土が泥流下することが常識であるとする理由は、上にあがつた水は下に落ちる時には土と一緒に落ちるからというだけであつて科学的根拠に乏しいものであるうえ、いわゆる灰津波事故は微粉灰の石炭灰という極めて粘着力の乏しいものが主体であり、捨て土を構成する関東ロームとは全く異質のもので、しかも約一四万立方メートル堆積していたもののうち約四万立方メートルが崩壊したもので、本件とはその規模において格段の差があり(本件における崩壊土量は前記認定のとおり約二一六立方メートルである。)、また地形学的にも類似性は認めがたく、崩壊発生前の四日間の総雨量は三ミリメートル程度であつて、石炭灰に水分を供給したのは後背地からの地下水であることなど(甲七七号証・防災センター所長作成の捜査関係事項照会書に対する資料送付についてと題する書面添付の資料参照)、本件実験斜面の状況とは全く異なる状況及びメカニズムのもとに発生したものであるのに、それを全く同一に扱つているもので、捨て土の泥流化を予測しうるという結論も合理的根拠に基づくものとは認められず、泥流が比高の一〇倍は流下するという一般的見解も存在しないものと認められること(第五五回公判調書中の証人W及び第五七回公判調書中の証人Vの各供述部分による)に照らすと、本件において土砂の泥流化及びそれが池に到達することは予測できたとする、右Qの前記供述は到底是認できない。

(三) 証人Rは土質工学の専門家であるが、「関東ロームは自然状態ではかなり強いが、それを掘つたり、崩したりして盛り土に造成した場合には丹念に締め固めても空隙が多く、まして捨て土や崩土では空隙が更に多いものと考えられ、散水によつて飽和されると大変危険な状態になると予想される。道路の盛り土の経験では法面と称する斜面の表面を締め固めることが難しく、その部分に関東ロームに肥料分の含まれている肥沃土を一五ないし二〇センチメートル置き、芝の着きやすいようにするが、非常に強い降雨にあうとその部分がしるこ状になつてはげ落ちるということが多く、捨て土に水が加わつた状態を想定するとそれがしるこ状にはげ落ちるということも想像できる。私が調査に加わつており、自然斜面の上に盛り土、崩土、捨て土がのつているという状態を想定して雨をかければ、危険な状態と判断すると思う。地質や地形、散水する水の量などを十分調べても崩壊する土砂の量や到達速度、距離を予想することは不可能であり、個々の技術者が自己の体験に照らして判断する性質のものであり、私は現地に行つておらず、現地の植生や地形の平面的広がりを見ていないので難しいが、ひよつとしたら土砂が池まで来るかもしれないという感じをもつており、しがらみ柵の所であれば更に危険度は増すといえる。」旨供述しているが(第二九回公判調書中の証人Rの供述部分)、関東ロームが掘り返されたりして乱された場合にはその強度が低下することは認められるものの、同人が経験したしるこ状になつたという土は、斜面に置いた厚さ一五ないし二〇センチメートルの関東ロームに肥料分を含ませたものであつて、本件の捨て土とはその性質を異にするものと思われ、同人の右経験から直ちに本件においても崩壊した土砂がしるこ状になると予想できたものとは言えないし、同人は現地を全く見たこともなく、崩壊土量、崩壊速度、到達距離は予想できないというのであるから、しがらみ柵付近が危険というのは同人の全くの感じに過ぎないものであつて、予見可能性の存在を認める根拠となりえないものといわなければならない。

(四) 証人Sは地形学の専門家であるが、「事前調査、特に履歴調査を十分やつていれば、実験地の周辺でいかなる崖崩れがあつたかがわかり、本件においても崩壊の規模、範囲はある程度予想でき、地質学的なもので崩れやすいか、崩れにくいかもある程度判断できる。私は現場を見ているが、報告書の盛り土の量を前提とし、灰津波の際三〇メートルの崖を泥流化したものが三〇〇メートルも流れたことや実験斜面の地形等を勘案すれば、土砂は一〇〇メートル位流れると思つた。流速については専門外なのではつきりしないが、非常に速いものと思つている。」旨供述するが(第二八回公判調書中の証人Sの供述部分)、灰津波が本件と全く異なつたメカニズムによつて崩壊したものであることは前記のとおりであり、本件において土砂が一〇〇メートル流下するという判断も崩壊土砂量、土質、斜面の状況を十分検討したうえの判断ではなく、大雑把にいつてその程度流下すると考えたというに過ぎないものであるうえ、流速が速いとする点については全く合理的根拠をあげていないものであつて、予見可能性について消極的である証人X(事故調査委員会の委員で自然地理学専攻)の供述と対比しても説得力に欠け、右Sの供述も予見可能性を根拠づけるものとはいえない。

(五) 証人Tは土木橋梁工学の専門家であり、検察官に報告書の内容について検討を依頼されたものであるが、「報告書を検討した結果、本件事故について(1)実験前の斜面の検討不足(2)予備実験が生かされていない(3)崩壊による流出土量の予測ができていなかつたという三点が指摘できる。すなわち、実験斜面の構成を十分調べていれば、どこの地層のどのあたりから切れてくるか予測できたかもしれないし、したがつて崩壊土量についても検討できたはずであるし、予備実験における歪み量の測定をもう少く詳しくしておけば崩壊のメカニズムの予測もある程度でき、少なくともどの位の量のものが流下してくるか、到達距離がどの位になるか予測しえたような気がする。崩壊速度については予測が極めて難しいが、崩壊のメカニズムがわかつていない以上、今回のような崩壊の形状が発生しないとは言い切れず、結果としてしがらみ柵付近は危険だつたということになる。」旨供述するが(第四二回公判調書中の証人Tの供述部分)、同人は前記のように土木橋梁工学を専門とするものであつて、地質構造や斜面の崩壊のメカニズム等についての専門的知識を有するものではなく、報告書における崩壊のメカニズムの重要な要素とされている薄層流についてさえ、ある幅の浅い土の層が下に流下するものの総称であるという誤つた理解をしているほどであり、また同人は崩壊前や崩壊後の実験斜面の状況を観察しておらず、土砂が崩壊し、しがらみ柵にまで到達したことを前提として、報告書の記載からいわば結果論として危険であつたとしているだけで、予見可能性が存在するとする具体的根拠をなんらあげているものではなく(同人のいう「実験斜面の構成を十分調べていれば」という前提の部分が、そもそも理想論に過ぎず、実際上はこれが不十分にしかできなかつた事情は前記認定のとおりである。)、同人の供述もまた予見可能性の存在を根拠づけるものとはいえない。

2 次に検察官が土砂が泥流化して高速度で流下したとしてあげる災害例について検討するに、検察官があげる災害例は、

(一) 昭和四五年五月三一日にペルー・ユンガイで発生したもので、泥流化した土砂が秒速一〇〇メートルで流下したとされるもの

(二) 大正一二年の関東大震災の際、小田原の根府川で発生したもので、土石流が秒速約二七メートルで流下したとされるもの

(三) 大正一五年五月二四日に十勝岳で発生したもので、泥流が秒速四〇メートルで流下したとされるもの

(四) 明治二一年に磐梯山で発生したもので、泥流が秒速二〇メートルで流下したとされるもの

(五) 明治四五年に長野県稗田山で発生したもので、土砂流が秒速二〇メートルで流下したとされるものであるが、(一)はマグニチュード7.8の地震により海抜五五〇〇メートルから六四〇〇メートル付近で岩屑なだれが発生し、五〇〇〇万ないし一億立方メートルという土砂が高度にして三五〇〇メートルも流下したものであるなど、本件とは崩壊の原因も規模も全く異なるものであり、(二)も関東大震災という地震に伴つて発生したもので、その発生原因が異なるばかりでなく、崩壊の規模も一〇〇ないし三〇〇万立方メートルという巨大なもので、高速度の生じた原因は崩壊規模が大きかつたこと及び崩壊発生から崩土の流下中、絶えず地震動が働いたためと考えられているものであること、(三)は十勝岳の火山爆発に伴つて二〇〇万立方メートル以上の山体が崩壊し、爆発の熱による急激な融雪を起こし、その水と山腹の表土約七九〇立方メートルが土石流となつて流下したため高速度となつたものであり、(四)も磐梯山の爆発によつて一二億立方メートルの山体が崩壊して発生したもので、いずれも崩壊の規模及び原因が全く異なるものであり、(五)は崩壊前の豪雨がひとつの原因となつている点において本件と類似する点がないではないが、その崩壊土量は一九〇〇万ないし二〇〇〇万立方メートルという巨大なもので本件とはその規模において全く異なるものであつて(被告人甲野の昭和六一年一二月一日付陳述書)、第五七回公判調書中の証人V及び第五回公判調書中の証人Yの各供述部分によれば、散水あるいは豪雨による斜面の崩壊と(一)ないし(四)のような火山の爆発あるいは地震による崩壊という全く異なる原因の事例は区別して扱わなければならず、崩壊原因や崩壊規模を捨象して単純に速度のみを比較しても意味がなく、また、一般に規模の大きいもののほうが流速が大きくなるので、過去の事例を検討する場合には比高(標高差)や崩壊規模による検討、相似則を適用した換算(ある事象について、それを縮小して実験する場合、幾何学的な縮率と力学的縮率が同時に成立するようにするため、元の事象の速度や時間を開平した値(平方根)を算出して換算する法則)が必要とされていることが認められるのであつて、右各事例のうち、本件と崩壊原因の全く異なる(一)ないし(四)の流下速度を前提として本件における流下速度を検討することは妥当ではなく、崩壊原因において本件と類似する稗田山の例に相似則を適用すれば、本件程度の規模・形態における土砂流下の速度は、せいぜい毎秒四、五メートル程度ということになるのであつて、検察官のあげる過去の災害事例を検討しても、本件において発生した秒速16.9メートルという高速度の土砂の流下について予見可能性があつたものということはできない。(なお、検察官は相似則が存在するとしても、これが成立するのは斜面の傾斜角度、斜面の土質と崩壊した土砂の土質、含有する水分、粘度、崩壊の原因などすべての条件が同一の場合に成り立つに過ぎないことは明らかであり、傾斜の角度や土砂の粘度などが異なれば、そのままの形で成り立つものとは思われない旨主張するところ、なるほど検察官の主張するような要因も相似則の適用にあたつては一応考慮すべきものと思われるが、本件において検察官のあげた事例はいずれも土砂が高速度で流下しやすい条件を備えた極めて特異な事例であつて、土砂の崩壊において右事例以上に高速度で流下した事例は経験されていないのであるから、相似則の適用にあたつては、むしろ右各事例は過去の土砂崩壊における最高の流下速度を現したものと考えるべきである。)

また、第八回公判調書中の証人Uの供述部分によれば、同人は被告人甲野に対し、狩野川台風の際、関東大震災の時亀裂が生じていた所から崩れ、数時間のうちに実験斜面に近い飯室谷が埋め尽くされてしまい、翌朝その付近を通つた際、土砂が山の両側を五、六メートル上の方まで覆つていたこと、及び同人がそれを見て土砂はああいう時は羽根の生えたもののように飛ぶんじやないかと思つたという話をしたことは認められるが、右程度の知識を得たからといつて、本件における土砂の高速度の流下について予見が可能であつたということができないことは明らかである。

なお、検察官は、熊本水俣病事件の判決を引用し、いわゆる因果関係の経過は逐一詳細に知る必要はなく、当該行為と結果との間の基本的な因果関係の経過が予見可能であれば足りるとして、土砂の流下速度、到達距離のいかんは別として、上から下に多量の水分を含んだ土砂が崩壊してくることは被告人らも予測していたはずであり、しがらみ柵が多量の流下土砂を塞ぎ止める用には耐えないことも認識していたから、被告人人らはしがらみ柵が危険であることは十分予見可能であつたようにも主張するが、「土砂の流下速度、到達距離のいかん」の部分がまさに本件崩壊事故の基本的な因果関係の重要部分であるというべきであるから、その点を抜きにしても予見可能性がある、という右検察官の主張は失当といわざるを得ない。

五予見可能性についての結論

以上のとおり、被告人甲野の置かれていた具体的状況のもとでは、本人はもとより一般通常人及び専門家にとつても、崩壊した土砂が数ブロックに分かれて流下すること及び薄層流が発生存在して、土砂がそのうえを摩擦係数0としても説明できないような高速で流下することを、予見することはできなかつたものといわなければならず、検察官が予見可能性が存在する根拠として主張するところはいずれも採用できないから、結局本件においては、捨て土等の土砂が崩壊し、しがらみ柵を越えて高速度で流下することは予見できなかつたものといわなければならない。また、被告人甲野は前記のとおり、崩壊した土砂の速度を最大毎秒六メートル程度であると想定し、しがらみ柵手前で土砂は停止し、せいぜい着衣に泥しぶきがかかるくらいと予測していたのであるが、その予測は摩擦係数を約0.3と考えたことになる。第四〇回公判調書中の証人X、第四一回公判調書中の証人Z、第五四回公判調書中の証人Y、第五六回及び第五八回公判調書中の証人Vの各供述部分によれば、本件当時の学問的水準においては土砂の崩壊の場合、摩擦係数を0.4程度とすることは一応妥当とされていたことが認められるのであつて、被告人甲野はそれ以下の摩擦係数、すなわち安全側に摩擦係数を想定していたことになり、当時の学問的水準において被告人甲野の予測は一応首肯しうるものであつたということができる。したがつて、被告人甲野にそれ以上の摩擦係数の低下した状態、すなわち崩壊した土砂が本件のように高速度の流下することを予測し、それに対応して災害の発生を未然に防止すべく、しがらみ柵下に見学者等を入らせない注意義務があつたということはできない。

なお、被告人甲野の捜査段階における供述調書によれば、実験斜面の崩壊が切迫したと思われた頃、同被告人は報道陣を含む見学者らを、そのまま見学させるべきか、あるいは避難させるべきか、迷つているうちに崩壊が起きてしまつたという供述部分があり、同被告人は崩壊土砂がしがらみ柵を越えて流下する危険を、漠然とした形でも感知したのではないかと解釈すべき余地がある。

しかしながら、業務上過失責任における予見可能性とは、右のような漠然とした危惧感では足らず、合理的根拠に裏付けされた具体的な危険発生の可能性を予見できたことが必要であるから、右のような漠然とした危惧感があつたとしても、それによつて被告人甲野に右危惧感を払拭し、危険な結果を回避すべく、しがらみ柵下に見学者らを入らせない注意義務があつたとすることはできない。

なお、未知の危険が発生する可能性のある本件崩壊実験のような場合には、危険な結果回避義務の前提となる予見可能性は、右程度の危惧感があれば足りるとする学説もあるが、そのような説に従うことは、業務上過失責任の成立範囲を不当に拡大させ、明確な基準による歯止めを失わせるおそれがあるので、これを採用することはできない。付言するに、本件事故は一五名の犠牲者を出した痛ましい人為的災害ではあるが、発生した崩壊機構の点において当時の人智を超えるものがあつたと認められる以上、崩壊実験の衝に当つた者の過失責任を問えないとするのもやむを得ないところであり、この事故は今後の防災対策等の関係において、貴重な教訓として銘記すべき事例となるのだろう。

第五結語

以上のように、被告人乙川は本件事故の発生を防止する業務上の注意義務を負担する立場にあつたものとはいえず、被告人甲野には本件事故の発生について予見可能性がなかつたのであるから、見学者等をしがらみ柵下に入れないようにして事故の発生を防止するという注意義務があつたものとはいえず、結局本件は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人らに対し、いずれも無罪の言渡をする。

(裁判長裁判官和田保 裁判官植垣勝裕 裁判官並木正男は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官和田保)

別紙1、2<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例